宮古市「大杉神社」/時代の命運を分けた宮古港海戦の地を見下ろす。 2023.2.20

 ずいぶん久しぶりに宮古魚市場や漁港近くの「あんば様」に立ち寄ってみました。



「あんば様」とは、ここを信仰し、奉る人たちからの呼称で、

正式には「大杉神社」といいます。






子どもの頃、このすぐそばに住んでいた私たちにとっては、

境内に建つ石碑に刻まれた文字から、ここを「チュウコンヒ」と呼んでいました。

つまり「忠魂碑」です。




この大杉神社の基礎知識を、

宮古地方の歴史文化情報に詳しいネット百科事典「ミヤぺディア」から紐解くと、

次のように出ています。


《神社の創建は江戸中期で今から約200年前とされる。鍬ヶ崎と銚子方面との船舶の往来が頻繁にあった頃、鍬ヶ崎の藤井家が銚子のあんば様を勧請したことにはじまる。その後宝暦4年(1754)に藩主の免許を得て旧館の愛宕神社境内に祠を建て、昭和8年(1933)に現在地の光岸地青葉遊園内に鎮座した。境内には、宮古港戦蹟碑、鴨塚の句碑、織部灯篭、忠魂碑が建っている。(中略)大杉神社の縁日は江戸末期から昭和初期まではお盆最中の8月16、17日に行われ、五十集(いさば)の若者たちや、鍬ヶ崎芸妓が入り乱れて踊る夜祭りを挙行していた。明治になると祭りは近郷近在からの見物人も増え、町印として大きな提灯や消防組による山車行列が繰り出されるようになった。(中略)現在は宮古夏まつりとして7月最終土日を縁日とし御輿運行、曳き船、花火大会などが行われる。現在の大杉神社祭神は天之手力雄命。神社は、銚子(千葉県)のあんば様を勧請したのが始まりといわれる》






この説明にも紹介されているように境内には「宮古港戦蹟碑」が建ちますが、

この境内から眼下に見下ろせる、決して広くない漁港こそが


日本初の海戦の地として知られる宮古港です。








「宮古港戦蹟碑」は、近代日本初の洋式海戦であった宮古港海戦を後世に伝え、命を落とした戦士たちを慰霊するため大正6年に建立されたもの。碑には海戦は明治2年3月25日、旧幕府軍が新政府軍の軍艦を奪うため宮古港で激突した詳細が記されています。





そもそも宮古港海戦のあらましとはこういうものです。

宮古市のホームページ内の解説から紹介しておきます。

宮古港海戦


この散策の様子をおさめたYouTubeチャンネル「岩手謎学フィールドワーク」もご覧下さい




さて、「あんば様」に話を戻します。


この「あんば」という聞き慣れない言葉は、

漢字では「安波」と書き、波か落ち着くよう祈願する漁業の神とされます。

また「アバ=浮子(漁業用ブイ)」、あるいは「アバ=網場」を意味するなど諸説あります。

いずれも漁業にゆかりのある意味合いを持つことで共通するのが興味深いところです。


また、「あんばさま」「あんばやま」と、同じ名を持つ港を見下ろす神社や小山は、三陸では山田町や気仙沼市にもあります。


そして、一般的には千葉の銚子から勧請されたという話がありますが、

私は常陸国(茨城)との繋がりも強いのではないかと考えています。


なぜかというと、この神社の祭神に、義経家臣の一人とされる

常陸坊海尊

が祀られていることが挙げられます。

このことはほとんど知られていません。

実のところ私自身も深く調べてみたことはまだありません。

しかし、海尊ゆかりという線が浮上している以上、

常陸国との関係性は一応しっかり調べてみる必要がありそうと考えています。


近いうちに山田や気仙沼、それに茨城、千葉を訪ねて

丁寧にフィールドワークしてみたいものです。

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